「幸福」を国の指標に選んだ国が、
大地でも同じ理想を追いかけている
ヒマラヤ山脈の南麓、インドと中国に挟まれた小さな王国、ブータン。この国は、世界のどの国よりも早く、国の豊かさを「幸福」という物差しで測ることを選んだ。そして、その理想を大地の耕し方にまで広げようとした、ある挑戦の記録が残っている。
1972年、当時16歳で即位したばかりの第四代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは、こう宣言したと伝えられている。
"Gross National Happiness is more important than Gross National Product." 国民総生産(GNP)よりも、国民総幸福量(GNH)の方が重要である。
この言葉から生まれた「国民総幸福量(GNH)」という考え方は、良き統治、公平で持続可能な社会経済開発、文化の保全、環境の保全という4つの柱に支えられている。チベット仏教の精神文化に根ざしたこの指標は、やがて2011年、国連総会で「幸福と発展」に関する決議として採択されるまでに広がりを見せた。GDPの成長を絶対視しない国が、世界に一石を投じた瞬間だった。
この「幸福」という理想は、ブータンの農地政策にも大きな影を落とした。2012年、リオ+20地球サミットの場で、ブータン政府は「世界初の100%オーガニック国家になる」という壮大な目標を掲げた。化学肥料や農薬に頼らない農業は、GNHが大切にする環境保全と、国民の健康の両方に直結する理想だったからだ。
結果を先に記しておく。目標としていた2020年までに、この理想が達成されることはなかった。2019年に開かれた国内の有機農業シンポジウムでは、政府関係者自らが目標未達を認め、達成期限を2035年へと先送りすることを表明している。現在、正式に有機認証を受けている農地は、国内の耕作地全体のおよそ5.6%にとどまる。
ただし、この数字だけでブータンの農業を語るのは正しくない。ブータンの農家の8割以上は、そもそも合成農薬や化学肥料を使ったことがない、伝統的な農法を営んできた人々だ。彼らの畑は、認証こそ受けていないものの、実質的には昔からずっと「オーガニック」だったとも言える。国家としての正式な達成には届かなかったが、暮らしの土台にはもともと、その理想に近い姿があったということになる。
掲げた理想に、まだ届いていない。それでも歩みは止めない
出典:ブータンの有機農業目標と認証農地の割合=ハインリヒ・ベル財団東アジア事務所の報告(2022年)ほか。GNHの提唱と国連決議=国連総会決議65/309(2011年)、ブータン政府公式資料に基づく。
「幸福を国の目標に掲げる」という理想主義的な宣言と、「有機農業への転換率5.6%」という地味な現実。この二つを両方とも正直に記録し、目標の期限を先送りしてでも歩みを止めないという姿勢にこそ、ブータンという国の本当の強さがあるように思う。理想を掲げることと、それが未達であることを認めることは、決して矛盾しない。
読者のみなさんの日々の暮らしにも、掲げた理想と、追いつかない現実のあいだで揺れる瞬間があるかもしれない。届かなかったことを恥じるより、次の期限を定めて歩き続けること。ヒマラヤの小さな国が、静かにそのことを教えてくれている。
「幸福」を国の目標に掲げたブータンは、有機農業という理想にまだ届いていない。それでも歩みを止めない姿勢に、地球人倶楽部が目指す食卓づくりも重なるところがあると感じています。
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