医者が処方した"ひとさじ"が、
世界一のオーガニックな国をつくった
1897年、チューリッヒ湖畔にひとつの療養所が開かれた。院長である医師が、消化に負担をかけない夕食として病人にすすめた一皿が、いま世界中の朝食テーブルに並ぶ「ミューズリー」の原型になるとは、本人も想像していなかったかもしれない。
その医師の名は、マキシミリアン・オスカー・ビルヒャー=ベンナー。彼が開いた療養所「フィタール・クラフト(生命の力)」は、薬に頼らず、食事と日光、運動によって体を整えるという当時としては異色の治療方針を掲げていた。きっかけは、彼自身がアルプス登山中に山小屋でふるまわれた、生のオーツ麦とりんご、木の実を混ぜただけの質素な一皿だったという。
ビルヒャー=ベンナーの思想は徹底していた。加熱調理は食材の"生命力"を損なうという考えのもと、健康な人には食事の半分を、療養中の患者にはできる限り多くを生の食材でとることをすすめた。当初「アプフェルディエットシュパイゼ(りんごの食事療法食)」と呼ばれたこの一皿は、あくまで治療のための処方食であり、朝食として親しまれる菓子のような存在ではなかった。
この処方食が国境を越えて広まり、朝食として定着していく過程で、生のオーツ麦とりんご、ナッツ、牛乳やヨーグルトを合わせる調理法だけが残り、「ミューズリー(Müesli、スイスドイツ語で"お粥"を意味する言葉に由来)」という名で親しまれるようになった。療養所を訪れた患者の中には、作家のトーマス・マンもいたと伝えられている。
「治療のための一皿」として生まれた食文化は、100年以上の時を経て、この国の食卓そのものの気質になっているように見える。スイスは、チーズやチョコレートといった伝統的な食文化の国であると同時に、いまや世界でもっともオーガニック食品にお金をかける国でもある。グリュイエールやエメンタールといった山岳地帯のチーズづくりも、原産地呼称(AOP)制度によって土地の伝統製法が厳格に守られており、素材と製法への意識の高さは、朝食のミューズリーから食卓全体に通底しているとも言える。
2023年、スイスの一人当たりオーガニック食品消費額は468ユーロに達し、世界で最も高い水準を記録した。これは、2位のデンマークを大きく引き離す数字だ。特別なキャンペーンや政策の後押しがあったわけではなく、日々の買い物の積み重ねがこの数字をつくっている。
治療食が、国民の日常の選択になった
出典:一人当たりオーガニック食品消費額=FiBL・IFOAM Organics International「The World of Organic Agriculture 2025」。ミューズリーの誕生の経緯=スイス政府公式文化情報サイトほか複数の記録に基づく。
"治療のための一皿"と"世界一の消費額"という、一見かけ離れた二つの事実のあいだには、実はまっすぐな道筋がある。何を食べるかを丁寧に選ぶという態度が、一人の医師の診療室から始まり、100年以上かけて国全体の日常に染み込んでいった。派手な旗印を掲げなくても、小さな選択の積み重ねが、いつか国の姿そのものを変えていく。
読者のみなさんの朝食にも、りんごとオーツ麦を無理なく取り入れられる余地があるかもしれない。特別な思想を掲げる必要はない。ただ、素材を選び、丁寧に組み合わせる。その積み重ねの先に、この国が示したような景色があるのだとしたら。
ひとりの医師が処方した一皿が、100年をかけて国民の日常の選択になった。地球人倶楽部が届ける食材も、日々の小さな選択の積み重ねの中に、そっと寄り添えたらと思います。
オンラインストアへ →※本ページでご紹介した統計は、各出典(本文中に記載)の公表時点のものです。
※本ページの内容は食文化・食養生に関する一般的な話題のご紹介であり、特定の効果効能を示すものではありません。