移民が持ち込んだ一皿が、
大地の味を目覚めさせた
紅茶と、茹ですぎた野菜。かつてこの大陸の食卓は、驚くほど単調だった。それを変えたのは、移民たちが持ち込んだ、たった一皿の野菜料理だったのかもしれない。
第二次世界大戦後のオーストラリアは、深刻な労働力不足を補うため、大規模な移民受け入れ政策を進めていた。1947年から1961年のあいだに、ビクトリア州のイタリア生まれの住民は8,305人から91,075人へと、10倍以上に増えている。彼らが持ち込んだのは、エスプレッソだけではなかった。
それまでのオーストラリアの食卓は、イギリスの植民地時代から続く「肉と、茹ですぎた野菜と、紅茶」という、単調なものだった。地中海から来た移民たちは、オリーブオイル、トマト、ズッキーニ、なす、にんにく、そして新鮮なハーブを持ち込む。当初は「奇妙なものを食べている」と見られたその食卓は、やがてこの国の舌そのものを変えていった。
移民たちは裏庭や農地にオリーブの苗木を植え、故郷の味を再現しようとした。南オーストラリア州のリバーランドやビクトリア州のキングバレーに根づいたその苗木は、2020年には年間2万トンを超えるオリーブオイルを生み出すまでになっている。イタリアの大地の記憶が、地球の反対側で実を結んだ形だ。
彼らの多くが暮らしたのが、メルボルン中心部に近いカールトンやフィッツロイといった界隈だった。1954年、レオ・ペレグリーニとヴィルド・ペレグリーニの兄弟が、市内バーク・ストリート66番地に小さなカフェを開いた。「ペレグリーニズ」。当時のオーストラリアではまだ珍しかったエスプレッソマシンを備えたこの店は、いまも同じ場所で営業を続けている。
"Little Italy." カールトン地区、ライゴン・ストリートの通称——地中海の食卓がこの街に根付いた場所
食卓の変化は、暮らしのリズムそのものも変えていく。1993年、シドニーの小さなカフェ「ビルズ」が、あるメニューを世に送り出した。アボカドトースト。考案したビル・グレンジャーは、その後スクランブルエッグやリコッタパンケーキでも知られるようになり、「オーストラリア式ブランチ文化」の生みの親と呼ばれるようになる。夜のパブで一杯ではなく、朝の光の中で卵とアボカドを味わう——そんな朝の過ごし方が、この国の新しい習慣になっていった。ビル・グレンジャーは2023年12月、54歳でこの世を去っている。
この「素材そのものを味わう」感覚は、オーストラリアという大陸そのものの姿にも表れている。乾いた大地と長年向き合ってきたこの国は、いま世界でもっとも広大な有機農地を持つ国でもある。
移民の食卓が、大陸の農地を変えた
出典:世界と豪州の有機農地面積=FiBL/IFOAM「The World of Organic Agriculture」(2024年実績)。オリーブオイル生産量=豪州のオリーブ産業に関する報道(2020年時点)。
この国の「選ぶ文化」は、政策から生まれたわけでも、大企業が仕掛けたわけでもない。移民たちが持ち込んだ小さな食卓の記憶が、何十年もかけて大陸全体の農地と暮らしのリズムを変えた結果だ。
この連載の最初に紹介したイタリアの食文化が、思わぬ形で地球の反対側の大地に根を張っている。読者のみなさんの中にも、メルボルンのカフェでフラットホワイトを飲みながら、どこかイタリアの空気を感じた方がいるかもしれない。
移民が持ち込んだ一皿の野菜料理が、いまや大陸の農地を変えた。地球人倶楽部が届けている一皿も、いつか誰かの暮らしに、そんなふうに根付いてくれたら。
オンラインストアへ →※本ページでご紹介した統計は、各出典(本文中に記載)の公表時点のものです。
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